私は15ですが、もう人生に疲れました。何かいじめられているからとかではなく、普通に楽しい友達もいて、割といい方だと思います。ただ、何と言い表せば良いのか分からないのですが、時々、いつも一人というわけではないのに寂しく感じたり、自分の人生がつまらなく空虚なものに感じたりします。そして、夜に家族が寝静まってから起きていると、酷い孤独感に教われたり、自分には何もなく、私が一人死んだら誰か泣いて悲しんでくれるのだろうか、もしかすると誰も私が死んだことすら気づいてもらえないんじゃないかと考えたりして泣きたくなってしまいます。
そのようなことを考えていると、まだたいして長く生きてきたわけではないのに何もかも知ったように人生、もう十分生きたからいいやと思えてきたり、今死ねば、若いうち綺麗なままで老いることなく死ねるから悪くないとまで思えてきてしまいます。私は、昔から何故かは分かりませんが、「若くして死ぬ」ことや「綺麗なままで死ぬ」ことに憧れてきたように思います。でも、死ぬのはどこか怖いようにも思うのです。こんなことを言うのは我儘(わがまま)で自己中な人だと分かっているので、自分が嫌になります。
最近は以前よりも泣くことが多くなってしまい、疲れてもう感情的になってしまいたくなく、感情なんかいらないと思うことが増えました。
どうすれば感情はなくなりますか
どうすれば良いのか分からなくなりました。
回答
なにか不満があるのではなく、なんとなく「人生に疲れた、寂しく、つまらなく空虚」なものと感じているのですね。この悩みは古代ギリシャから哲学者たちが問い続けてきた「生きる意味とは何か」と同じように思います。
哲学者たちが考えてきたことを私なりに解釈してみます。
「生きる意味とは何か」、すなわち「人はどんな目的を持って生まれるのか」という問いです。
「動物(人間以外)や植物はそれぞれの種の生き方(目的)は決まっているが、人間は目的を持って生まれない」と言っています(サルトルという哲学者)。つまり、人間は自分の目的を自分が生きていく中で見つける、自由な存在だ、ということです。一方、目的が見つからないと不安で、その自由から逃れたくなります。生きる意味(目的)を今、見つからなくても、逃げずに考え続けることが大切と思います。
次に「死」についても悩んでいます。「死への憧れ」を持つ一方、「死ぬことへの恐怖」という相反する気持ちがあるのですね。
「人には2種類の生き方がある。世間に埋もれた誰でもいいような生き方と、ほかでもない自分による真剣な生き方である」(ハイデッカーという哲学者)。真剣な生き方とは何でしょう? 外見(容姿)だけでなく、内面(心)にも目を向け、死の瞬間まで、生が輝くように懸命に生きることが大切と思います。
今、あなたは「我儘で、自己中で、自分が嫌」と自分を否定的に自己分析していますね。
「苦しみを受け入れることで強くなれるのだ。自分を成長させようとする意志が強く生きることにつながるのだ」(ニーチェという哲学者)と言っています。今の自分をそのまま受け入れ、自分のよいところを見つけることが大切と思います。
最後に、私からのメッセージです。あなたは「何をもって憶えられたいですか?」
この言葉の意味は、例えば、有名なスポーツ選手、タレント、政治家など、他人からの外見の記憶ではなく、自分に問いかける言葉です。自分自身を今までと若干違う人間として見るように仕向けてくれる問いです。
今すぐ答えを出さなくてもよいのです。なぜなら一生を通じて自らに問い続けるからです。