誰からも必要とされていない・死んでしまっても誰も悲しまないと考えてしまいます。友達と喋るときも上手く喋れない・人への気遣いが足りない・みんなは頑張っているのに私は頑張れていない…社会にとって不要な存在だとしか思えないんです。私は最近の状況を「最大多数の最大幸福」と呼んでいます。私のような何もできない人のために、幸せな人が多く犠牲になるぐらいなら、私のようないらない存在1人がいなくなれば、社会は円滑にことが運ぶ、みんな幸せになれると考えてしまうんです。
何も取り柄のない私は、生きている価値があるのでしょうか…?
回答
相談してくれてありがとう。
自分のことを色々な角度から観察したり、他の人が自分をどう受け止めているか想像したり、それはあなたが成長している証拠ですね。その過程で考えが深まり、つらくなってしまうこともあるのかなと感じました。
自分自身に価値を見出すために自分の周りの人が自分をどう評価しているか、気になることもあるでしょう。つい人と比較して自分ができないことに目が向きがちです。しかし、ちがう視点で考えてみると…できないことと反対のことは、意識せずにできることだとも言えます。できることは無意識のうちにやっていることが多く、自分にとっては当たり前のことだったりするものです。そしてできないことは、ただあなたにとって好きではないことなのかもしれません。
これらを書き出して考えてみると整理でき、すっきりするかもしれません。これが自分と向き合うこと、そして自分はこんなことが好きなんだと気づくことにつながれば嬉しいです。
できないことをできるように努力することは成長していく過程で、ときに必要です。しかし何のために努力するのか、それは自分の幸せのためにということを忘れないでほしいと思います。自分が幸せであることで初めて他の人の幸せを考えることができるのではないかと感じます。
誰かが犠牲になる社会よりも、みんながそれぞれ幸せを大切にしながら相手の幸せも尊重できる、そんな社会であってほしいと相談員は願っていますし、そうなるように行動したいです